かきたくなって

 こんにちは。
 ブログ担当の雄一です。これで16回目の更新となります。

 また、ずいぶんとブログを書くことを放置してしまいました。本当は、週に一度更新するはずなのですが、さいきんは少し体調を崩していたりして、つい甘えてしまい、さぼりがちになって、とうとう書くことを忘れてしまいました。
 書くこと自体は好きで、たまに何を書こうかなあと迷うことはあるのですが、こうやって文章にして自分の気持ちを整理したりもできるので、やはり自分には向いていると思うし、確かに読んでくれている人もいるから、また書き続けていきたいなあと、改めて決意したところです。

 書くことは、不思議なことだと思います。文字にして、文章にして、はじめて自分はこんなことを考えていたんだなあと気づくこともあるし、自分の気持ちを書いたはずなのに、どうしても自分のことのように思えなかったり、あるいは、書いた文章を数日後に読み返すと、新たな発見があったりして、一度生まれた文章によって、何度もいろいろな楽しみが生まれたりします。
 このブログの文章も、きっと自分が書いたものを読み返したりすると、まるで他人が書いたもののように感じられるのでしょう。
 
 何かを伝えようとしたり、自分の気持ちを整理したりすると、特に感情などのあいまいなものは、完全に当てはまる言葉には出会えない気がします。できるだけ近い言葉を当てはめる、という作業をひたすらしていく感覚になります。ウソをついているわけではないけれど、しかし、この言葉では限りなくウソになるような、そんな風に感じることもあります。でも、いま現状はその言葉しか思いつかない、だから、仕方なくその言葉を使う。
 そもそも書きたいこともないのに書いているという不思議な状態になることも、私はよくあります。自分だけが読む文章を毎日のように書くのですが、そのときに生まれる言葉たちは、本当に自分から生まれたものなのかと、後から読んで不思議になることがよくあります。言葉が生まれて、その言葉が自分の思ったことのように錯覚している、そんな気がするときもあります。
 
 言葉は、武器だとも考えれます。使い方次第では、人を大きく傷つけます。
 同じ言葉でもそれをどう受け取るかは人それぞれで、みんなが傷つきやすい言葉というのはもちろんありますが、しかし、それは傾向に過ぎず、だから私たちは同じ意味のことを伝えるのでも、相手によって言葉を変えたりします。
 こうやって不特定多数に向けての文章は、どう伝わるのかはまったくわかりません。だからSNSなどの発言は、よく炎上しているのかとも思います。たまに炎上している内容をよく見てみると、この発言からこういう読み取りをすることができるんだと、驚くことがあります。人は多様で、もちろんそのパターンも限界はありますが、しかし他人にどう伝わるかを完全にコントロールできる人はいません。

 そんなことを考えていると、何かを伝えようとすることが怖くもなります。基本的にコミュニケーションは、ディスコミュニケーションの連続で、それを互いに理解しながら、できるだけ歩み寄る作業をひたすらしていっているのかもしれません。
 わかりあえないという前提があり、それでもわかりあえることを夢見ている。あるいは、わかりあえることは諦めて、それでも互いに影響を与えて生きていく。
 どちらにせよ、他人のことはやはりわからず、だから私たちは普段使う言葉や行動などを、気を付けて、相手を傷つけないようにするのでしょう。

 誰かと生きていたら、まったく傷つけないことはできないと思います。究極的なことをいえば、一緒にいるだけで、自分という存在は他人にとって脅威でありうることができる。それでも一緒にいることを選ぶ。それはやはり奇跡的なことであり、喜ぶべきことなんだろうなと思います。

 文章ではこうやって大げさなことを書く私も、普段の生活ではこんなことを考えているわけでもなく、すぐに感情が揺れ動いて、相手を傷つける言葉を不用意に言ってしまうことがあります。でも、こうやって時々いろいろなことを思い出しながら、いま一緒に過ごせている相手とのことを考えて、わかりあえないながらも、一緒に楽しく生きていける方法を見つけたいなと思っています。

 だらだらと書いて、上記に書いたことを読み返すと、やはり自分が書いたこととは思えなかったりします。
 何が言いたいのか、それはわかりませんが、ただ平穏に、いまある喜びを忘れずに、ただ感じられたらいいと願います。

 それでは、またいつか。

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